2016年1月17日
どういうふうに表現が起こるのか知らないが
とにかく このタイトルではじめたくなった
非二元 の感覚が起きるのは
どうにもこうにも苦しんで 思考の坩堝から抜けられない時に
唯一 乗れる舟のようにおもう
他の舟はりっぱそうにみえてもいつかは沈む
過去にあることで苦しみがあって
いろんなひとに相談したり セラピーと呼ばれるものをうけたり
本を読んだり 瞑想したりしたけれど
まったく 「これだ」の感覚になれなかった。
ところが突然 わかったのだ。
これは私と誰かのことじゃない。
「私」という個人(そのころは 私のエゴ と名づけていた。)と
個人じゃない「私」とのことだと。
そうしたらもう決着はついている。
ずーっと 正しいのは私なのか相手なのかを頭の中でやってきたけど
相手が問題なんじゃない。
個人じゃない全体の私(山田耕榮さんは全という漢字に わたし というルビをふっていた。)に
個人の「私」が勝てる訳がない。
突然そんなおもいがわきあがってきて
すーっとして その時の苦しみが終わってしまった。
たぶんその頃ダグラス・ハーディングの本を
何度も繰り返し読んでいたからかもしれない。