写真の「お気楽」 「芸熱心」
このコラージュに入っている二つのワードは自分をうまく表現しているとおもう
瞑想人の体験として「一瞥」と呼ばれるミニ悟り状態が起こる
その味わいは人それぞれだとおもう
ひとのことはわからないので自分のことを書きたいが
文章でうまく表現できるかはわからない
「魔境」ということばを2ヶ月前と つい最近 私は二度きいた
1度目は禅の老師から直接
2度目は以前よく聴いていた安達さんの「お気楽ちゃんねる」の最新「両目を開ける」で。
http://okirakuc.seesaa.net/
どちらも自分がなくなるというすばらしい・・・
そう 私にとってそれは素晴らしい体験だった
そういった出来事に対しての二人の同一のことばだ
いまからたぶん10年以上前 インド プネーのOSHO瞑想リゾートで
瞑想をして 絵を描いていた頃
確か 絵の長いトレーニングが終わったあとのことだったとおもう
それ が起こったのは瞑想中などではなく
OSHOのコミューン(みんなその頃はアシュラムと呼んでいたけど)にむかう途中の
リキシャの中だった
突然 私がいなくなったのだ
記憶もあるしそれをみている意識が残っていたので
なるべく忠実に表現したいとおもうが こんな感じだった
あれっ 私がいなくなっちゃった・・・
どこにもいない
だけど どれも私だわ・・
空も通りのインド人もリキシャもリキシャババも
この空気もみんな私になっちゃった
ヒヤーー 道にはき捨てられたツバさえも
なめても問題ないくらい・・・(とおもったことを覚えている)
このとき しっかりこれを見てる何者かは存在していました
またこれが来たぞ(2度めだったので)
でもいつまで続くんだろう
もうすぐコミューンに着くけど知ってる誰かと話したら終わるかもしれない
いつまで続くかみていよう
これらのことが意識にうかんだ
普通の時間感覚はなくなっていたので
いつまで は覚えていない
けれど確実にそれは消えました
その頃は それがずっと続いてもどらないことが悟りだとおもっていて
確かに まったくのワンネスで
そのとき 心配事 不安感 頭で考えるあれこれが消えて
これがずっと続くんだったら 悟りってなんてすばらしい境地だろうとおもい
そうなるまで瞑想を続けよう といった感じでいた
時間かたつと
なんでコミューンの中じゃなかったのだろう
なんの兆候もなく突然
まったく私の手の内にない
そう 1回目の時はバックゲートを歩いていたら道路で突然起こり
私がおもいついたことは
たぶんまわりに悟った人がいて 私が瞬間ノーマインドになった時に
その悟ったひとの空間に入り込んだのだろう ということだった
うん あのリキシャババは悟っていたのかもしれないな
インドだったらありえる
それでそのことを直後は誰かにシェアすることもなく
一時期執着はしたものの あの体験をもう一度・・・の熱望も薄れ
悟り ということばがかんたんに使われるようになったこのごろ
井上老師にお会いしたあと
ふと このことをたずねてみたい という気持ちがおこったのだ
「そういった体験を見性とみるところもあるようですが
私どものところでは魔境といっております」と
老師は 静かにゆっくりと話された
「はい そうだとおもいます」ということばが自分の口からでたものの
禅でいうところの 忘我 ってどういう状態をいうんだろう
と
これまた頭が考え出した
記憶にないってこと?
確かにインドの聖人にはそういうひとが多い
そういった状態に長く没入してしまうっていうか
ラーマクリシュナやアーナンダ・マイマーの伝記などを読むと
まわりで普通の生活をお世話してあげなければならないひとが
そばに必要になっている
「身体は身体の機能をはたす」らしいが
私は悟り を勘違いしているのかもしれない
体験としていうなら そこに「生」と言う名前と
「死」という名前がついているにすぎず
私はインドでバッグを盗まれ足の爪をはがすという体験をしたが
至福 と名づけている体験もそれと同じことになる
優劣も損得もない
だけど 自我が黙っちゃいない
しかしその自我もまた自我の役目をはたしているのだ
と「お気楽チャンネル」をきいて私のなにかが納得した
安達さんはこういう体験のことを「片目を開けた」状態と
表現している
とてもわかりやすい
井上老師のスピリチュアルTVでの映像をみると
こういった体験は
「修行の入り口にも立っていない」状態ということだった
http://tetsugen.jimdo.com/カフェ寺ライブ中継動画/
(最初の動画)