Meeraのことば 2014年4月30日
自分に響いてくることばというのはその時々で違うが
今回の能登でのMeeraのことばには
ハッとして じわ~っとしみ込んでくる感覚に何度も包まれた
これまでは切れ味のいい禅スティックのような一言
ユーモアがあってパンチのきいたことばが残ったものだ
というか そういったことばがその時の私にタッチするものだったのだろう
霊的うんぬんに関心のない彼女だが
天と直結した巫女Meeraを私は時々感じている
Meeraが言ったことばとして正確ではないかもしれないが
私はこうきいた として印象に残ったことをシェアしたいとおもう
グループルームに韓国のオーガナイザーがつくってくれた?という横長の
Meera歓迎幕が張ってあった
そこにはOsho の文字もあったがMeeraの文字のほうが大きかった
マスターであるOshoより自分の名前のほうが大きいなんて畏れ多いみたいに感じ
自分はOshoをまつりあげていないか(こういう表現ではなかったかもしれないが)
Oshoを上にして自分を過小してはいないだろうか とおもったという
私はMeeraからこういうことばをきくとはおもわなかった
OshoというマスターにたいしてMeeraほどdevotion(捧げる)そして 帰依ということばが
ふさわしいひとを私は知らない
今回MeeraはOshoを描いた新作の原画をみせてくれた
それが鉛筆、木炭などのドローイングでなくアクリルで描いたときいて
ぶったまげてしまった
アクリルでOshoの顔 このヒゲ描いたの?!!!
描いていたこの冬 自分は画家なんだろうか と何度も窓から絵を放り投げようとしたという
この絵はOshoへの愛
弟子である私たちへの愛
Meera自身への愛 存在に対する限りない愛の表現だ
私たちは毎日桜の花を描いた
絵をかくのがつまってきたとき何をするのか
Meeraは「私はおとうさんとおかあさんをおもいうかべる」と言った
(絵に招待する・・・だったかもしれない)
そうするとまた絵がかけるようになる と
私も幹がおもうように描けない時 亡くなった父をおもいうかべてみた
すると「おめが描ぐ絵はどだなだっていい」・・・・・お前が描く絵はどんなものでもいい
という父の声がきこえてきてうれしくなった 気が楽になった
その線はたとえ変でも未熟でも あたたかい
夕食になってもMeeraが姿をみせずナイトペインティングを
何時からはじめるのかわからない日があった
表に行くとやっぱりひとりで夜の桜を描いていた
気迫に満ちていて近づきがたいものを感じたが
「ミラ」と声をかけると
「来ないで!」
「何時から?」
「好きにして」
Meeraの「来ないで」は私に深く美しく響いた
私は人生で 迷いなく この「来ないで」を言っているだろうか
それはNOとか ものをハッキリ言うということではなく
ひとや物との一期一会
この大切な二度と来ない瞬間への敬意のことだ
次にこの桜と出会える保障はない
私たちも自然の一部として常に変化の中にある
もうひとつ付け加えると
私がパートナーと組んでみんなの前でシェアしたあとに
表で桜を描くことがあった
たまたまMeeraの近くで描いていた私に
「ひとのふりみてわがふりなおせ だね」という声がきこえてきた
「あのシェアはヘナが自分自身に言ったことばかもしれないね~」
えっ それどういうこと?
Meeraは時々 禅の公案のようなことばをなげかけて私をかき乱す
そして何年か経ってそのことがわかったりするのだ