「家族の座」というワーク 2015年10月1日
「家族の座」はたとえ自分の座を開かず
他のひとの座を観るだけだとしても
いつも感じるものがあります。
そして これは私の感覚ですが
松本清張の小説の世界が思い起こされるのです。
といっても本を読んだことはなく
TVドラマや映画になったものを通してのものです。
私の知っている清張ワールドの中では
とんでもない事件が起きて
それは 殺人とか盗みとか犯罪と呼ばれるもので
とんでもない事件を起こしてしまったひとが
なぜそんなことを起こさざるをえなかったのかに焦点をあて
せまっていきます。
ニュースでは「悪者」にされているひと
そのひとの心理
子供の頃のことや、環境、そのひとに関係しているひとたち
関係している人たちの中に
まったく関係ないとおもわれるわたしたちも
ふくまれているのですが。
私 対 誰か ということで
相手をただ否定するだけでは
真の解決にはならず
その後ものごとは自然なカタチで動いてはくれません。
無視されたり 否定されたり 葬り去られたひとたちは
なんとかして存在を認めてもらおうとします。
松本清張の作品はそういったひとたちに光をあて
最後には慈悲のような なんとも言えないものに包まれ
「ありがとう。」と言いたくなります。
やるせない結末だとしても
一人でもわかってるひとがいる という救いのようなものです。
うまく表現できているかわかりませんが
「家族の座」のあと、同じような気持ちになるのです。
癒しが起こって
きゅっとしてたものが ゆるっとほどけていくのをみるとき
ひとを尊重することに
美しさと途方もない力を感じます。