自分をごまかすことはできない ① 韓国の覚者 金剛さん

どうにもこうにもこれまで問題にしなかったことが
ことあるごとにうかんでくるようになっていた

それは家族や親しい友人、そして自分もふくめて出かけようとする時など
なにか突然の事故や病気で死んでしまうのではないかという恐怖が瞬間やってくるようになっていたことだ

その感情は一瞬だけれども
これからあと何十年か生きる予定なのにオートマチックにやってくるとは・・・
決着をつけるときがきた みたいな感じがしてきていた

私は自分を精神的な人間だとおもっている
瞑想もしてきた
肉体の死は古い衣服を脱ぎすてるようなもの
本質は続いていく
OSHOは「あなたは身体ではない。マインドではない」と言っている

スピリチュアルな知識はしこたまあるけれど
本当に死を知っているのだろうか
死ぬ時、そして死んでからあとのことは死んでみないとわからない
前世があったとしても死んだあとの記憶は私にはない
わかってたはずだったのにな・・・

死について考えるとあまりにも怖いので
小学生の時に封印した

しかし今年になってから
気になっているものだから死に関してのあれこれがやたら目につくようになった

熱望は答えを探し出す  
この時が 「時」だったのだろう

スピリチュアルTVで韓国の覚者マスターゲート氏を知り
印可をうけた弟子のひとたちへのインタビューが「悟りへの道」ということでいくつかUPされていた
私は特に韓国のひとたちのことばが通訳をとおしても響くものがあった

まだみていない映像があって
それは「韓国の覚者」金剛さんという男性が語っていたものだった
http://www.ustream.tv/recorded/39891905
自分の目覚めの体験から話していく方が多い中 このひとは違っていた

「生きている間 死は必ず起こるようになっている
 生の終わりを話しているのではなく
 生の一部として もっとも現実的なものとして取り上げることができる
 死を理解しないのであれば どのような生を生きるにしても
 完全な生を生きることはできない」

エーっ なに?なに?なにーーーっ

自分の欲しい花があって その花の香りがしてきた
まさにそんな感じで
これをタイムリーと言わずして何と言おう

けれど金剛さんはすぐにはそのことに入っていかなかった

テディさんとのやりとりやチャットの質問に答えるなかで
自然と答える形になっていった
私はノートに彼のことばを書きとめた
書き留めることに意識をむけていたせいか あとで読んだときなにかがぼやけていた

たとえていうなら
この花園には確かに私の求めている花がある
香りもしている  でも霧がかかっていて見えない

書いたノートには
「私がいるから生は可能
 死も それ以前に私がいてこそ可能」

「完全である私が生、死以前にいたので 生と死の現象が起こる」

「うまれた私は必ず死ぬけれど 死という現象は起こるわけがない
 それ以前に私がいたということ
 死によって影響を受けるはずのない存在」
 
香りがしてきたけれど その香りを頭で解明しようとするものだから
ぼやけたままで 
その時の私は 霧の中に立っている状態だった

みたのは今年の2月はじめだったが映像は2013年10月のものだった

そのころ浜松の井上老師の寺カフェに行くことは決めていたようにおもう
井上哲玄老師のこともスピリチュアルTVで知った
死 このことは老師にもっともたずねてみたい問いだった

が その後 問いがそれ自体で展開するかのように動いて
私を連れ出しはじめたのだ

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