浜松のカフェ寺では私たちのどんな質問にも井上老師が
竹を割るような気持ちよさでスパッと答えてくれた
大悟されたお方はシンプルで晴れやかで普通で
これぞ禅 迷いなし の存在まるごとだった
このとき私には「死」の質問がうかんでこなかった
ところが友人が浄土真宗、お念仏のことをたずねると
老師はあるお話を始められた
広島の浄土真宗の熱心な門徒に嫁いだお嫁さんの話だった
浄土真宗では悟った普通のひとのことを 妙好人という
かまどの中の赤く燃えた皿をおもわず取り出そうとして手を入れ
悟ってしまった若い嫁さん
門徒の集まりで質問に答えることになり
「死んだらひとはどうなるのですか?」という学者さんの問いに
その方の胸ぐらをつかんで
「おまえさん 生きているのか、死んでいるのか、どっちなんだ?」
「生きてるんだったら 死んだ先のことは用がないじゃないか」
と言ったという
私は老師のその話をきいて 一瞬思考が止まってしまった
そして次にうかんだことは
な、何なの! 私 質問してないのに 老師さまが答えてくれた・・・・・
テラさんに続いてのダメ押しが来た
さらには 帰り際 老師のお父上である師匠 井上義衍老師の本
「井上義衍老師語録」にサインをお願いすると
なんとわたしたちひとりひとりに違った言葉を書いてくださったのだ
「 天心無我 」
生まれたときから私がいない という意味だそうだ
山形にもどって本のページをめくると
「天心無我」を義衍老師が語った言葉をみつけて驚いた
「人が生まれてくる時に、「私」というものを持って生まれてきたのではない。
「私」がないから死ぬ対象がない。」
私がないから死ぬ対象がない・・・・・
参りました!
降参とはこのこと
井上老師の禅の教えをじかに肌で感じてから
私は死が気にならなくなった
恐れがなくなったというわけではない
けれど恐れを感じ 次の瞬間
いま恐れを感じているか?と自分にたずねると
それは消えてなくなってしまっている
いま ない
それが答えだ
死への恐れが私をここまで連れてきた
しかし
金剛さんからテラさん そして 井上哲玄老師 さらには肉体にいない義衍老師までも
ご登場願うという このすばらしい脚本を書いたのは
誰なのか
http://tetsugen.jimdo.com/カフェ寺ライブ中継動画/
コメントありがとうございます。
ずっと死を生の対極にあるものとしてみていましたが
いまは死もまた生の一部と感じるようになりました。
最近「非二元」の本を続けて読みました。
井上義衍老師が言われている「この者を自分とみなしたこと」からすべての苦しみは始まるようにおもいました。
その時々の気分でUPしていますが読んでいただけて、
うれしいです。