ふたつめのもやもやは
このことを絶対あきらかにしたい、質問したいというたぐいのものではなかったが
時に私のハードルとなること
霊的な世界についてだ。
私は時々 人なかに出た時や特定の場所で 突然具合が悪くなることがあり
「あ また憑いた?」とことばがでてしまうほど
自分を霊媒体質とみなしてきた。
自分がそういった星回りであることが生年月日などで判明しその対策もたててきた。
そうでないひとにとっては なんのこっちゃだが
私には困っているという事実があった。
哲玄老師の東京での禅会の時に用紙がくばられお話された文章の一文
「参学職るべし、仏道は、思量、分別、卜度(ぼくたく)、占い,観想、
知覚、慧解の外にあることを。」に 目が止まった。
禅ではこういった霊的な眼に見えない世界のことを
どう取り扱っているのだろう。老師ならなんと答えてくださるのだろう とおもった。
その用紙には 「釈尊は、吾はただ因果を説くために世に出現した。」と。
という一文もあった。
因果って因果応報の因果?
私は因果というのは何かの縁でず~~~っと続くものだとおもっていた。
それこそ過去世や眼にみえない世界で。
因果は瞬間、瞬間なのだという理解はなかった。
そんなおもいを抱き11月のカフェ寺に参加していると
「ということは、先祖代々の怨念なんてないんですね」ということばが
でてくる流れに遭遇した! というか
瞬時にその時をつかまえて質問した という感じだったけれど。
老師は供養のことや幽霊が出る といううわさなどのお話を通して
方便ということを言われた。
ある とおもっているひとに ない と言ってもこころは静まらない。
そこで方便というものがある。
そのお話をきいているうちに 私のもやもやがおさまっていった。
いまの私の理解では
あるといったら ある
ないといったら ない
(老師がそう言われたわけではない。
以下は私の見解・・・「人間の見解を離れよ」に矛盾するが・・・)
ある としてそこにエネルギーを注げばそれはどんどん大きくなる。
そして生き物のように動き出し悪さをすることもあるだろう。
だからその道のスペシャリストがいて退治もするのだ。
方便として。
私たちは時にその方便さがしに夢中になる。
方便で遊ぶ。
何のための方便だったか忘れる。
私の好みとしては過酷な方便より美しい方便が好きだ。
禅のもつ「自由自在」さ
老師の言われる「機能は機能のまま」の生活を続けていると
おもわぬときに 霊媒体質改善の縁とも出会うものだ。
これがまた方便に意味をもたせたり、握ってはなさないようになると
弊害がでてくる。
確かに私はその手の話が好きで 身体は苦しみながらも
それに栄養を与えるようなことをやっていた。
おもしろ半分でかかわると痛い目にあうことを知りつつ。
それはそれで世界がつくられるので
そこの流儀を知るひとたちにおまかせしよう。
きょうのブログは こんなふうになってしまった。
表現してみて 自分が霊的な分野にまだまだ関心があることがわかった。