井上哲玄老師への質問③野心

野心といっても何をもって野心と言うのか。

10月の東京禅会の時、最後のほうで
「怒りとか欲についてのお話がなかったとおもうんですけど
 老師はこれらのことをどうお考えですか?」
というような質問があった。

「あなたは欲を悪いものと考えておられませんか?
 日本を変えたい というような大きな欲がなかったら日本を変えられませんよ」
言葉は違ったかもしれないが哲玄老師はそのような意味のことを返答された。

私はハッとした。
もしひとつのことを 悪いと決めたらその道は閉ざされてしまう。
悪いがでてくると 悪くないこと、良いことがうまれる。
そして悪いの 反対側のことをしようとするのだ。

私はすぐ絵のことがうかんだ。
絵に関して謙虚でなくてはならないとおもっていて
毎年出品している県美展では 「賞なんて気にしないわ。
発表することが大切なのよ。」と言いつつも気にしている自分がいる。

芸術に野心を持ってはいけない みたいな
とにかく 自分が決めた「謙虚」ルールに無意識に従う。

これって可能性を閉じるってこと?・・ とおもった。

たとえば 怒りは悪いと決めたら どんな時も怒らないのがいいことになり
怒ったら罪悪感を感じたりもする。

このことがきっかけで 私はカフェ寺で
「良い悪いをつけないということですね」と言って 「野心」ということばを口にした。

すると老師は 静かに
「どんな野心があるんですか?」
えっ えーっ まさか そんな切り替えし・・・

「あの えーと 私は絵を描いているんですけど・・・」
自分が野心とおもっている二つのことを言うと
「それは野心とは呼ばないでしょう。」
「それはあなたが決めることではなくまわりが決めることです。」

そうして才能ある若い蒔絵師の話をされた。
蒔絵師では食べていけないので他の絵の仕事もしたが
どんな絵でもそのひとの描くものは なにかほっとするとものがあったと。

「野心」と名づけた途端に私が定義している「野心」ができる。
これを「ヴィジョン」とか「目標」 「遊び」と呼んでもいいわけだ。

「私は どでかいふたつの遊びがしたい」とか・・・

「悟りたい」「探求したい」などの強いおもい
まずはそこから始まっていく。
あるひとには「出世欲」あるひとには「悟り欲」がわきおこる。
良いも悪いも ない。

「井上義衍老師語録」の  「 三五  変幻自在」は
私がもっとも心惹かれる義衍老師のことば

  私どもは、犬にもなれば月にも花にもなる。
  どんなものにも化けながら、どれにも化かされないように
  きちっと出来ているのです。
  化けるなら思い切り化けてみるがよい。
  何にでも化けながら、それで自分自身に化かされさえしなければいいのです。
  自由な自分の真相を知って、そしてそれに自由に動かされて活動する。
  そういう自分を本当に知ってみると面白い。
  これぞ、自己の真面目である。

「自分自身に化かされさえしなければいい」
というのが肝心でむずかしいところだとおもう。

「自由な自分の真相を知って、そしてそれに自由に動かされて活動する。」

なにをやりたいか なにをやるか なにが野心か より
「自分の真相」を知ると 縁に触れて何にでもなる自分がいるってことだ。

真相に動かされるんだから 
「私」の思い通りにはならないだろうけど
そこがまた おもしろいということになる。

まずは
「自分の真相」だ。

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